弟子の変容にふれて ―仏縁に導かれて―
先日、関東からお弟子さんが来山されました。その姿を見て、私は心から驚き、そして胸が熱くなりました。初めてお会いした日のことが、今も鮮やかに思い出されます。
あのときの彼からは、まさかここまで変わられるとは――。まさに、仏縁とは不思議なものです。
出会いは偶然のようで、必然でした
あれは3年ほど前のこと。私が東京出張中、寺から電話が入りました。「入門希望の方が住職と会いたいとおっしゃっています」と。
偶然にも私も近くにおり、新幹線の時間まで少し余裕があったため、ホテルのロビーでお会いすることになりました。
彼の第一印象は、華やかでファッショナブル。とても出家を望む方には見えませんでしたが、お話をするうちに、非常にまじめで真摯な方だと感じました。
人に寄り添う姿勢の根底にあるもの
彼は休みの日には、数百キロ離れた相談者のもとへ自費で赴き、無償で心の支援を行っていました。自身の経験と苦しみを乗り越えたからこそ、人の痛みに共感し、寄り添うことができる――そんな姿が印象的でした。
仏門を志した理由は、おそらくご自身の「救い」を求める気持ちと、「誰かの支えになりたい」という願いの両方だったのでしょう。
修行を重ね、阿闍梨へ
その後、彼は多忙な公務員として働きながらも、真摯に修行に取り組み、阿闍梨の資格を取得されました。
けれど、現役の公務員としての制約もある中で、僧侶としての活動は難しいのではと思われました。
晴れやかな表情での再会
今回来山された彼は、以前のような華やかさは控えめでしたが、表情が晴れやかで、以前感じた影はまったく見受けられませんでした。
関西のお寺の法要にも僧侶として出仕されたそうで、伝統宗派の中で活動できたことをとても喜ばれていました。
さらに、職場でも僧侶活動に関する理解を得て、お布施もいただきながら活動を続けておられます。以前のボランティアから、今は仏道をもって人々に寄り添う在り方へと、確かな歩みを進められているのです。
修行を乗り越えたその先に
「修行中は辛かった。何度も逃げ出したくなった」と、彼は当時を振り返ります。
けれど今は、「僧侶になって本当に良かった」と、心から晴れやかに語ってくださいました。
「こんなふうに自分が変われるとは、想像していませんでした」
その変化は、まさに仏の光に導かれた歩みといえるでしょう。
仏縁は、いつでも、誰にでも
仏縁とは、理屈では計れないものです。
余談になりますが、私が初めて得度を受けた日に、最初の師僧が伝えてくださったひと言があります。
それはまた、別の機会に。
仏様が、それぞれの歩みに応じて、光を差し伸べてくださっているのだと、私は信じています。
合掌 聖徳派