聖職者になれますか?
昔のことですが、一人旅の途中、空港の待合室でトイレに行きたくなったことがありました。
複数の大きな荷物をひとりで抱えていた私は、「どなたか信頼できる方に荷物を預けられないか」と、周囲を見回しました。
目に入ったのは、制服を着ている方でした。
「この人なら大丈夫だろう」と、私は思わず声をかけ、事情を話し、荷物を預けました。
制服というのは、そういう信頼感を与えるのだと、改めて感じたできごとでした。
僧侶の姿もまた、同じです。
衣をまとい、袈裟をかけて歩けば、人は自然と「きっとこの人は心正しく、道徳的に生きている人だろう」と見ます。
それが「聖職者」に対する、社会的なまなざしです。
🧘♂️ 僧侶とは「誰かの安心である」こと
僧侶は、ただ仏教の教えを語る人ではありません。
その立ち居振る舞いが、周囲の人に安心を与える存在でなければなりません。
どんな場所でも、たとえば人が困っていれば自然と手を差しのべる。
たとえば誰かが争いそうになっていれば、そっと場をなだめる。
そのようにして、そこにいるだけで「心が和らぐ」存在であることが求められます。
🔍「聖職者になれますか?」と尋ねられたら
私が道場の住職として面談を行う中で、「僧侶になれるでしょうか?」というご質問をいただくことがあります。
私がその際に必ずお伝えするのは、「なれるかどうか」ではなく「なろうとする心」を持っているかということです。
誰しも初めは未熟です。しかし、志を持ち、日々を丁寧に積み重ねていけば、自然と人の心に寄り添える器が育っていきます。
- 人の話を聴く姿勢があるか
- 自分の感情を静かに調える力があるか
- 他者の尊厳を尊重できるか
- 失敗や過ちから、学び直す勇気があるか
これらはすべて、今からでも育てられるものです。
🌱 日々の修行が「僧侶であること」
僧侶とは、「悟りを得た人」ではなく「悟りを求め続ける人」です。
私たちは修行を重ねることで、自らの心を整え、行動を正し、人々の苦しみに寄り添う力を磨いていきます。
だからこそ、「聖職者になれますか?」という問いの答えは、あなたの毎日にあります。
今日、誰かのために静かに祈る時間を持ちましたか?
今日、誰かの話に耳を傾けましたか?
今日、感謝の気持ちで仏様に手を合わせましたか?
🔔 まとめにかえて
人に信頼され、必要とされ、安心を与える存在。
それが「僧侶」であり、自らの心を修め、他者に和をもたらす者です。
「僧侶になりたい」と思われたその志こそが、あなたを聖職者へと導く第一歩です。
その道を、私たちは応援しています。
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【真言宗 聖徳派道場 心和寺】
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